Vリーグから東京オリンピックへ今すべき日本バレーの姿

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Vリーグから東京オリンピックへ
今すべき日本バレーの姿

嶋岡健治(一般社団法人日本バレーボールリーグ機構代表理事会長)× 木村憲治(公益財団法人日本バレーボール協会会長)

この対談は月刊バレーボール9月号でも続きを掲載しています!お楽しみに

日本リーグ時代の思い出


木村会長、松下電器現役時代


木村
私が、松下電器(現・パナソニックパンサーズ)に入社し、日本リーグでプレーしたのは第2回大会からです。その後、長く現役を続けましたが、優勝したのは1回だけなんです。
嶋岡
優勝したのは、昭和46年度(1971年)の5回大会ですね。
木村
そう。でもそれより印象が強いのは、第4回大会で当時、嶋岡会長がいた日本鋼管(のちのNKKナイツ)がとにかく強い、なかなか勝てなかった。当時は、2回戦総当たり制でおそらく勝てても1つ、トータルで1勝1敗になる。そうなったときは「1勝1敗に持ち込めた時はチャンスだから、優勝せないかん、他のチームには絶対に1セットも落とすな」と初優勝へ団結していました。しかし専売広島(現JTサンダーズ)を相手にセット落としてしまって…、そうなると案の定、最終的は日本鋼管との1勝1敗に持ち込めたものの、セット率で優勝できなかったことのほうが覚えていますね。
実際、第2回~第6回まではずっと日本鋼管と松下電器が1位・2位を占めた時代が続いたけれど、結局、松下電器は2位ばかり。「絶対優勝するためには1勝1敗でもつれ込まないかん」と言ったのに(笑) 今も悔しいなあ。


嶋岡会長、日本銅管現役時代

嶋岡会長 日本鋼管監督時代
(第15回日本リーグ、監督初年度)


嶋岡
そういうことのほうが不思議と覚えているものですよね。 私は、ちょうど昭和47年度、第6回からスタートでした。その年には優勝させていただいきましたが、そこからしばらく勝てない時代が続き、つらい思いをしたことを覚えています。
木村
そのころは、新日鐵(現・堺ブレイザーズ)が強かったのかな?
嶋岡
はい。ちょうど全日本でも活躍した小田勝美選手、田中幹保選手あたりが出てきて、ずっと強くなってきたところでした。(第7回~第10回まで4連覇)52年度(第11回)に何とか勝つことができましたが、その後はケガ人が出てまた勝てなくなってしまって…。私自身はその優勝に至るまでがやはりいちばん充実していた時期だったのかな、と思います。
木村
なるほど。私が充実していたという点で考えると監督時代になるかもしれません。選手を引退してから、チームが実業団リーグ(現/V・チャレンジリーグⅠ)に落ちて、2回(監督を)引き受けたのですが、2回とも下に落ちたタイミングでした。そういったこともあって、監督としては、日本リーグで優勝をしたことが1度もありません。けれど、落ちて、上がる、落ちて、上がるという仕事を2回したので、その時の苦労は…少しキザな言い方をすると人間的に成長できたのはその経験のほうなのかなと思います。監督は負けてもどこにも相談に行けないし、自分の責任。勝った時には選手を褒めてね、でも自分は褒められないですし(笑) 損な商売と言えば損な商売。それを損と思うか自分のためになると思うかです。
嶋岡
やはり選手は、自分のことをやることで精一杯です。監督となると全体を見ていかなければいけないですし、その上でチーム、選手がどうしたら強くなるのか、また次にどうつなげていくのかを考えなければいけません。選手と監督は全然違うものですよね。

日本の強化に直結していた


木村
私たちの時代は、チームで言えば“東西の横綱”と言われた日本鋼管と松下電器の対決。全日本もメキシコ五輪(1968年)は決勝で負けましたけど、銀メダルを取ってその後のミュンヘン五輪(1972年)の(金メダルに)つながって…一つの大きな流れ、(バレーボールの)ムーブメントとしてはありましたよね。
もちろんその前にたいへんなご苦労をされた先輩方もいらっしゃいますが、僕らはいい時にバレーボールをさせていただきました。
嶋岡
これまで、オリンピックで男子3つ、女子6つ、メダルが獲れているのは、日本リーグ、Vリーグがあって、選手どうしが切磋琢磨してきたことがプラスになったことは事実です。私たちの時代も、リーグで戦うことは、非常に強化のいい場所ではありました。今のVリーグをもう一度そういった場にしたい、日本の強化につなげていくことは今後のポイントになると思っています。


高度経済成長とバレー、時代によって変化するVリーグ

嶋岡
昭和40年の後半まで、日本全体に活気があって、高度経済成長のころ。第1回が昭和42年スタートなので、ちょうどその時期と合致しているんですよね。
会社をどうやって盛り上げていくかということに必死になっていた時代。そこにバレー部ができてみんなで応援しよう、みんなで一体感を作っていこうというムードでした。選手たちにとってみれば、もちろん日本一になりたいという気持が大きかったと思いますけど、その思いと(バックアップする)会社の思いが一致したんじゃないかと思います。
木村
みんなが同じ方向に向かって応援する、ということが企業スポーツの原点。私たちの時代は、仕事をするために会社に入った。バレーをするためではない、今バレーしているけど将来は、仕事をしてこの会社で頑張っていくんだという雰囲気でした。今はちょっと違うスタイルになってきているし、時代によって変わってきました。これからも流れに沿って変化していく必要がありますよね。そういう意味ではこれからどういうリーグを作っていくかというのが嶋岡会長の腕前です。
嶋岡
はい。まずはバレーボールのやりがいを明確にし、世の中における位置づけをしっかりしていくこと。学生にとっての目標がなくなってしまうのはよくないと思っています。時代もだいぶ変わってきていますから、企業スポーツ、学校体育、スポーツを取り巻く環境は様々変化しています。それはバレーボールに限ったことではありませんが、スポーツが世の中でどういう位置づけになっていくのか? これから問われていく時代になっていくと思います。
木村
オリンピックは逃してしまったけれど、男子バレーも久々に盛り上がったし、これをきっかけにまたつなげていかなきゃいけない。
嶋岡
それがやっぱりいちばん大事なところでしょう。特に若い、大学生含め、中高生や子どもたちが“自分もあのステージで頑張ってみたい”と思えるような魅力あるVリーグ、バレー界でなければいけないと思っています。 今、少しずついい形になってきているので、今の現役の選手たちにはそういうことをやっぱり意識して、“常に見られているんだ、このリーグを盛り上げていくことでバレーの底辺が広がるんだ”という意識を一人一人に持ってもらいたい。プレーだけやっていればいいんだということではなく、常に子どもたちの目標になる選手になってほしいですし、それがバレー界の底辺の拡大につながります。やがていちばんトップのナショナルチームが強くなっていくところにつなげていかなければいけないと思っています。 ちょうど4年後に東京オリンピックがあります。2020年に向けて、ほんとうに今の選手たちが必死になって盛り上げて頑張ることで子どもたちにまた夢を持ってもらえる。そこでバレーの魅力を感じてもらいたい。その一方で2020年以降が厳しいことになってしまうと思いますから、今からの4年間がいちばん大事なだと思います。
木村
そうですね。男女のインドアバレーボール、そしてビーチバレーボール。すべてのカテゴリーでトップを目指していかなければいけません。ビーチバレーボールも将来、どういうふうにインドアと協力し合っていけるのか? とにかく、東京オリンピックで、頑張って成績を残す、金メダルを獲る、そしてその後につなげる、これを掲げなければいけません。
嶋岡
ほんとうに勝ちたいのなら、やっぱり厳しい環境の中で、今のままでいいというのはありえませんし、そんな中途半端な気持では絶対に勝てません。まず自分に厳しく。それがわからないのであれば、わからせるために周りがきちんとフォローしていかないといけませんし、もし、わかっていてやらないのであればそれはいちばん愚かなことだと思います。中途半端では絶対に勝てません。その気持をいちばん大事にしてほしいと思います。
木村
そうですね。まずは選手、スタッフに世界を知ってほしいと思います。「知る」ということはどういうことかということを考えてほしい。世界が大きいのは当たり前なんです。その大きい選手に勝つためには何をしなければいけないのか? それを考えることが“世界を知る”ということだと思います。その“考える”ということを今の選手たちは訓練されてないように思うのです。指示待ち人間では勝てません。世界を知って勝つために何をするんだということを自ら考えていく。すると、当然いろんな解決方法が見えてくるかもしれません。小さい日本人、我々が何をしなければいけないのか… その考えるということ、考えさせることを指導者には指導してほしいし、選手はもっと考えてほしい。  もちろん我々も全国各地から身長の大きな選手を発掘したり、そういったこともドンドン取り組んでいきたいと思いますが、チームはバランスが大事です。大きな選手だけではなく、テクニックのある小柄な選手と組み合わせて、日本らしい強いチームを作っていかなければいけないと思っています。

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